彼女がここにいる。自分のベッドの中に。
目覚めるのを待つ間、レイエスは自己抑制という名の修行をしているように思えた。ダニカがずっと眠ったままなんじゃないかという不安が募った。やがて彼女が目を覚まし、長いまつげが動いて明るいエメラルド色の目が見えたとき、本格的に責め苦が始まった。
レイエスがこっそり部屋を出ていこうとするのを魔物は喜ばなかった。
もっと歯と爪と痛みをくれ。
「だめだ」
頭の中で魔物がうめいた。
レイエスはちらりと振り返っただけで出ていった。ダニカの黒髪が枕の上に広がり、いつも自分の頭がある場所に顔を寄せている。そう思うと誇りで胸がふくらんだ。今この瞬間も彼の香りをかぎ、エッセンスを取りこんでいるに違いない。
それとも違うのだろうか。
ダニカは深く眠っていた。目はまぶたのうしろで上を向き、体はぴくぴくと動き、口から小さなうめきがもれている。ハンターにされたことを夢に見ているのだろうか?奴らはいったい何をしたんだ?質問に答えろと言って拷問したのか?レイプしたのか?
きいても彼女は答えず、何も言わなかった。レイエスも無理強いしなかった。ダニカの首のつけ根で脈が速まるのが見え、顔からは色が消え、美しい目が狼狽で曇ったからだ。
両手を握りしめたまま彼は階段を下りてキッチンに入った。少しの辛抱だ。また彼女に会い、話し、真実を探り出せる。どうしても知りたい。そのころには、噛まれて喜んでいる彼を見たときにダニカの顔に浮かんだ恐怖を忘れられるかもしれない。
ああ、あのときのことを思い出すと、快楽の記憶に心臓の鼓動が遅くなってしまう。ダニカを抱き、鋭い小さな歯先を首に感じた。ほんの一瞬、彼女は官能的に反応した。彼を求め、腰を滑らせた。そのときレイエスは気づいたのだ。彼女が求めているのは自分ではなく魔物だと。魔物がダニカの判断力を曇らせていた。レイエスがやめろと命じ、ダニカは身を引き離した。その瞬間レイエスが感じた苦悶は人生最悪であり……最高でもあった。
魔物はそれ以上を求めている。
震える手で彼は冷蔵庫を開けた。パリスが買い物をしたので、何があるのか彼は全然知らなかった。今日入ってるのは薄切り肉とパンだ。ということはサンドウィッチだな。
「アーロンはどこだ?」
背後でルシアンの声がした。
「約束は守った。今度はおまえが約束を果たす番だ」
レイエスは振り向かなかった。
「アーロンのところに連れていくよ。朝になったら」
「だめだ。いますぐ連れていけ」
レイエスは七面鳥の袋とハムの袋を取り出してかわるがわる眺め、肩をすくめた。ダニカがどちらを好きなのかわからないので、両方作ることにした。
「ダニカは衰弱して腹をすかせている。彼女の世話が終わったらおまえの好きなようにするよ」
いつもは穏やかなルシアンが低いうなり声をあげた。
「アーロンにとっては幽閉の一分一秒が地獄だろう。魔物は宿主が拘束されるのに耐えられない、それはおまえも知っているはずだ。今この瞬間も“怒り”の魔物は解放しろとわめいているぞ」
「閉じこめてくれとあいつから頼んだんだ。それを忘れないでくれ。もしアーロンをここに連れてきたら……どうする?結局閉じこめておくしかないだろう。どうせ閉じこめるならどこでも同じじゃないか。だいたいあいつはおれたちのそばにいたいと思っていない」
レイエスは袋をカウンターに投げ、パンを手に取った。白パンだ。
ダニカは白パンと全粒粉のパン、どちらが好きだろう?少し考えて、レイエスは両方作ることにした。それなら万全だ。彼は白パンの袋をつかんで手前に引き寄せた。
「もう一晩だけ猶予をくれと言っているんだ」
「アーロンが死にかけていたらどうする?おれたちは不死身だが、条件さえ揃えば普通の生き物と同じように死んでしまう。このことも知っているはずだ」
「あいつは死なない」
「どうしてわかる?」
「なぜか毎日、毎秒、体の中であいつの絶望が燃えているのを感じるんだ。その感覚がどんどん強くなる。アーロンが“怒り”に対して弱くなっているのは間違いない」
レイエスは息を吸いこんで止め……ゆっくりと吐き出した。それと同時にふいに燃えあがった怒りも消えた。
「あと数時間ほしい。頼むのはそれだけだ。おれのために、ダニカのために、そしてアーロンのために」
重い沈黙があった。レイエスは二枚のパンの上にそれぞれ肉をのせて重ねた。
「わかった。数時間だけだぞ」
ルシアンが歩き去っていくブーツの音が聞こえた。
レイエスはサンドウィッチを眺めた。
「足りないな」
人間はバラエティの豊かさを求める。パリスが恋人のことでいつもそう言っていなかったか?彼は顔をしかめてまた冷蔵庫を開け、中を探った。ぶどうがある。よし、これでいい。この前ダニカがここにいたとき、ボウルに盛ったフルーツをあっという間に平らげていた。
レイエスは袋ごとぶどうを取り出して洗い、四つのサンドウィッチのまわりに並べた。
飲み物は何がいいかな?レイエスはまた冷蔵庫に戻った。ワイン、水、オレンジジュースがある。ダニカにワインを飲ませるわけにはいかない。このワインには天国から盗んだ生命の酒が加えられていて、マドックスの人間の恋人アシュリンを危うく殺しかけたことがある。
レイエスは冷えたワインのボトルを押しやり、ジュースを手に取った。そして一滴残らず背の高いグラスに注いだ。
「おいおい、いったい何人分だ?」
レイエスは振り返った。サビンがたくましい腕を組んでドア枠にもたれかかっている。『パイレーツ・オブ・カリビアン』のばかげたシャツを着たサビンはパリスに劣らず現代的だったが、パリスのような優雅さはなかった。
「ダニカが腹をすかせているんだ」
「だろうと思ったよ。あの体格じゃ、全部食べるのは無理だろう。それにあの女は三日間ハンターといたんだぞ。食事より、兵糧攻めにして奴らのことを聞き出すのが先じゃないのか」
サンドウィッチを一つ失敬しようとしてサビンは腕を伸ばし、身を乗り出した。
レイエスはその手をつかんで握りしめた。
「自分で作らないと手を一つなくすぞ。それに彼女はハンターの仲間じゃない」
サビンはいかにもむっとしたように眉をあげた。
「どうしてわかる?」
答えがあるわけではなかったが、レイエスはたとえどんな形でもダニカを傷つける奴は許さないと思っていた。
「彼女には近づくな。サンドウィッチにもな」
「いつからそんなに気前がよくなったんだ?」
反対側からギデオンが顔を出し、レイエスが止める間もなくサンドウィッチを一つかすめとった。
ギデオンの場合、“気前がいい”は“けち”を意味する。
「やめろ」
レイエスはうなるように言った。
二人の戦士は噴き出した。
「わかったよ」
サビンはそう言ってもう片方の手でサンドウィッチを一つつまんだ。
レイエスは歯ぎしりした。仲間に銃を向けてはいけない、仲間に銃を向けてはいけない。
「あら、すてき!食べ物ね」
アニヤがアシュリンと腕を組んで足どり軽くキッチンに入ってきた。
「料理の天才の甘い香りがしたと思ったの」
レイエスの視界に赤い霞がかかる。女どもにパン屑一つたりとも、ジュース一滴たりともくすねられないように、皿とグラスを引き寄せた。
「これはダニカのだ」
「でもわたし、七面鳥が大好きなのよ」
アニヤが唇をとがらせた。アニヤは女性の中では背が高いほうだが、十センチのヒールをはいてもレイエスの顎までしかない。
「それにわたしが作るとあなたみたいにおいしくできないの。男の料理ってどこか違うのよね」
「おれには関係ない」
レイエスはアニヤを避けて行こうとしたが、彼女は両手を腰にあてて目の前に立ちはだかっている。通り過ぎようとしたら転ばされるだろうと思ってレイエスはため息をついた。
「ルシアンが作ってくれるさ」
またもやしかめつらだ。
「ルシアンは魂を引きとりに行ったわ」
「それじゃあパリスは?」
「若い女を探しに出かけた。飽きないんだから」
「我慢するんだな」
レイエスは同情のかけらも見せずに言った。
「わたしがみんなに作るわ」
アシュリンが少しふくらんだお腹をさすりながら言った。妊娠したアシュリンは最近お腹が目立つようになってきた。
「その間、ダニカのことを話してくれる?」
レイエスはアシュリンの出産のことをどう考えていいかわからなかった。子どもは魔物だろうか、人間だろうか?どちらが悪いか判断がつかない。始終内側から苦しめられるのと、有限の命と。
「元気だよ。それ以外に言うことはない」
「おれにも頼む」
サビンがアシュリンに言った。
「九十七パーセントのレベルで腹が減ってる。さっきのサンドウィッチじゃ焼け石に水だ」
「おれも満腹だ」
ギデオンが言った。つまり飢え死に寸前という意味だ。彼は手からパン屑を払い落とした。
「妊婦を働かせるなんて恥を知りなさい」
アニヤが叱った。
「ちょっと待てよ」
サビンが美しい女神に向かって指を振った。
「きみだって妊婦にサンドウィッチを作らせようとしたじゃないか。どう違うんだ?」
「妊婦だろうがなんだろうが、こっちにも一つ頼むよ」
何かを引っかくようなその声に、全員が口をつぐみ、振り返った。いっせいに驚きの声があがった。続いて全員が口を揃えた。
「トリン!」
アシュリンはにっこりして回復した戦士に近づき、両手を広げて抱きしめようとした。その肩をアニヤがぐっと引き留めた。
「この人は“病”よ。触ったら病気になるわ。忘れた?」
「ああ、そうよね」
アシュリンはトリンに笑顔を見せた。
「よくなってよかった」
トリンも笑顔を返したが、その表情には悲しみと思慕があった。
「そちらこそ」
トリンはレイエスの記憶のままだった――つまり、ハンターに首を切り裂かれるまえの姿と同じという意味だ。白っぽい銀色の髪、黒い眉、明るい緑の目。りりしさと不気味さが同居している。指先から脇まである手袋をしているのは、ほかの者と直接触れあうと病気をうつしてしまうためだ。相手が不死身でも同じだった。戦士たちが病気になることはないが、トリンに触れたあと人間に触れたら病をうつしてしまう。
「具合はどうだ?」
レイエスがきいた。
「よくなった」
緑色の目がレイエスの持つ皿に落ちた。
「腹が減ってる」
「だめだぞ。よくなったのはうれしいが、おまえに分けるほどの量はない」
トリンのほほえみには悲しみの刺はなかった。
「ベッドに縛りつけられていた日々がなつかしいよ。あのときは喜んで食べ物を持ってきてくれたのに。ああ、そういえば」
アニヤのほうに向き直った。
「友達が丘をのぼってくるぞ。きみを膝にのせてお仕置きしてやりたいって怒鳴ってたが、ルシアンに殺すなと言われたので手出しはしなかった。奴は左腿にナイフをしのばせているが、感知できた武器はそれだけだ。今ごろ入り口に――」
こん、こん。
アニヤはにっこりして手を叩いた。
「ウィリアムだわ!」
「なんの用だ?戻ってきたら殺すとルシアンが言い渡したはずだ。きみだってきらっていただろう」
「きらう?大好きよ!あの人のお気に入りの本を人質に取って、戻ってこいって脅したの。言っておくけれど、殺すっていうのはルシアンがからかって言っただけよ。二人は今やBFFなの」
アニヤはうれしそうに手を叩きながら迎えに行った。
「ウィリアム!」
やがてキッチンにいる一同のところに二人の声が遠くから聞こえてきた。
「おれの本はどこだい?」
「抱きしめてくれないの、テディ・ベアちゃん?」
「あの人、アニヤが鍵をなくしたショックから立ち直ろうとしているときにルシアンを怒らせたウィリアム?」
アシュリンがそうきいたとき、マドックスが彼女の背後に近づき、腕に抱き寄せた。
「それに、本ってなんのこと?」
「そのウィリアムだ」
マドックスはアシュリンの頬に鼻をすり寄せた。
「本のほうは知らないな。ウィリアムって奴はどうも知的なタイプには思えない。BFFってなんなんだ?」
「ベスト・フレンド・フォーエバー――永遠の親友よ」
マドックスは顔をしかめた。
「あの二人が永遠どころか一時的にだって親友になれる感じはしないな。ルシアンが戻ってくるまであの男を閉じこめておいたほうがいいんじゃないか」
アシュリンは恋人の胸にしなだれかかった。
「アニヤはあの人が好きなの。そっとしておきましょう。人が多いほどにぎやかでいいじゃない?」
レイエスはうんざりした。最近の砦は毎日がパーティみたいだ。
誰が何を料理するか、謎のウィリアムとやらをどうするかアシュリンと男たちがにぎやかに話しあっているのを見て、レイエスはその場を離れた。皿をまっすぐに、グラスのジュースをこぼさないように気をつけながら、こっそりキッチンを出た。
あなたが憎い、とダニカは言った。
わかってる、と彼は答えた。心からそう思っていたからだ。かつて彼はダニカを捕らえ、彼女の愛する家族を捕らえた。ハンターが彼女に目をつけるきっかけを作ってしまった。きらわれて当然だ。だが今はダニカに明るい何かを与えたかった。これから先、ダニカが思い出してほほえむことができるようなものを。それがただの食事でもかまわない。
階段をのぼりきったときもジュースは一滴もこぼしていなかった。ダニカはきっとまだ眠っているだろう。起こしてしまうのはいやだったが、体のことを思えばしかたがない。白い肌と目の下のくまが心配だった。栄養をとらないといけない。
ここにいる間はかいがいしく世話をしてあげよう。何一つ不自由がないように。
そっと寝室に入ったレイエスはベッドのそばまで行ってふいに足を止めた。口が乾き、視界にまた赤い霞が戻ってきた。黒いシーツが乱れている。
THE DARKEST PLEASURE
by Gena Showalter
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