遥か数千年前、ギリシャの神々に仕える気高き戦士たちがいた。だが彼らがパンドラの箱を開けたとき、世界に諸悪の魔物が解き放たれ、神々は罰として彼らひとりひとりの心に悪を封じ込めた。ある者は“暴力”ある者は“苦痛”というように。こうして呪いをかけられた暗黒の戦士たちは、内なる魔物と闘いながらひっそりと生き続けていた。だが宿敵ハンターがふたたび現れ、パンドラの箱を探しはじめたとき、平穏な日々は終わりを告げた。
パンドラの箱は戦士の内に潜む魔物を吸いとり、閉じ込める力を持っている。宿主となって長い年月を経た今、魔物を失えば戦士たちの命はない。彼らはハンターより先にパンドラの箱を見つけ出して破壊する決意をした。やがて、箱を手にするにはギリシャの神々の王ゼウスが隠したとされる四つの聖遺物を見つける必要があるとわかる。すなわち、万能の目、神のマント、強制の檻、聖なる杖を……。
レイエスはブダペストにある砦の屋上に立っていた。五階の高さを見下ろすいちばん高い足場で危うげにバランスをとる。頭上では月が空を紅と黄色に染めている。それは黄金を散らした血のようでもあり、光と混じる闇のようでもあり、果てしなく広がる黒いベルベットにできた真新しい傷口のようだった。
レイエスは眼下に待ち受けるよどんだ空間を見下ろした。地面が抱かせてくれと腕を広げ、あざ笑っている。数千年もの時を経ても、おれはまだこんなありさまだ。
刺すような風が髪を四方に乱し、胸をくすぐる。首の下に彫りこまれたいまわしい蝶、そこに散った生き血の記憶。だがそれは彼の血ではない。友の血だ。生と死のいまわしい印に髪が打ちつけるたび、罪悪感という炎に薪がつぎたされていく。
かなわぬ夢を抱いて何度もここに来た。繰り返し許しを請い、日々の苦しみから、身内にうごめく魔物からの解放を願い……みずからを傷つけることでしか快楽を得られない自分からの解放を願った。
祈りが聞き届けられることはなかった。これからもないだろう。これこそが今の自分であり、これからの自分でもある。苦しみが減ることはない。かつて神に仕えた不死身の戦士は、今は“暗黒の戦士”として、聖なる箱に閉じこめられていた多くの災いの一つに取り憑かれている。寵愛は不名誉へ、愛は侮蔑へ、そして幸福は無限の悲しみへと変わった。
レイエスは歯を食いしばった。人間は聖なる箱を“パンドラの箱”と呼ぶ。その箱こそが彼の身を滅ぼした元凶だ。数千年前、レイエスは仲間とともに無謀にもその箱を開けた。そして今、自分たちがその箱になりかわり、内に魔物を宿している。
跳べ。
レイエスの魔物が言った。
“苦痛”の魔物だ。けっして彼から離れない忠実な友。心の奥で彼にささやきかけ、言葉にするのもはばかられる邪悪なおこないをそそのかす。その超自然的な力との闘いは一瞬もやむことはない。
跳べ。
「まだだ」
もう少しだけ期待を味わおう。地面に叩きつけられれば骨は粉々に砕けるだろう。そう思うとレイエスの口元がゆるんだ。骨の破片は傷ついた臓器を突き刺し、水風船のように破裂させるだろう。皮膚は耐えきれずに裂け、彼自身の血が飛び散る。甘美なまでの苦痛がすべてをおおいつくす。
だがそれもつかの間のことだ。
レイエスのほほえみはゆっくりと消えていった。せいぜい数日、傷つけ方が足りなければ数時間で体は自動的にもとどおりになる。目が覚めれば体には傷一つなく、心の中では魔物がふたたび声をあげ、その声は無視できないほど大きくなっていく。けれども、骨がつながり臓器が形を取り戻し、皮膚が再生して血管に血が満ちるまでの至福の時間、彼は天国を、究極の楽園を味わう。それはこのうえなく甘美な恍惚だ。痛みがもたらすすさまじいまでの快感に彼は身をよじるだろう――それが彼の唯一の快感の源だ。魔物は満足の吐息をもらし、刺激に身をひたすあまり話すこともままならない。その間レイエスはこのうえない平穏を味わう。
それはいつもつかの間でしかない。
「どんなに短い時間か、わざわざ思い出すまでもない」
レイエスは暗い思いを押し殺した。時間はあっという間に過ぎる。一年が一日に、一日が一分に感じられることもある。
それでいて永遠に思えることもあるのだ。暗黒の戦士として生きていると、そんな矛盾がいくつもつきまとう。
跳べ。
ふたたび魔物がささやいた。さっきより執拗に。
跳べ!跳ぶんだ!
「言っただろう。もう少し待てと」
レイエスはふたたび地面を見た。血にも似た月光に険しい岩場がきらめく。岩場を囲む澄んだ水面に風がさざ波を立てる。亡霊の指のように霧が立ちのぼり、こっちへ来いと手招きする。
「敵の喉にやいばを食いこませれば死ぬ」
レイエスは魔物に言った。
「だがそれで終わってしまう。期待して待つ時間もおしまいだ」
跳ぶんだ!
声がもどかしげにうなる。まるでだだをこねる子どものように。
「もうすぐだ」
早く跳ばないか!
時として魔物はわがままな人間の子どものようになる。レイエスはもつれた髪をかきあげ、幾房か引き抜いた。もう一人の自分を黙らせる方法は一つしかない。服従だ。なぜ抵抗してまでこの瞬間を味わおうとするのか、彼にはわからなかった。
跳べ!
「今度こそおまえは地獄に戻されるかもしれないぞ」
願うだけなら誰でもできる。レイエスは腕を広げ、目を閉じた。体が前に傾く……。
「そこから下りろ」
背後から声がした。
邪魔が入り、レイエスはぱっと目を開け、体をこわばらせた。バランスをとったが振り返らなかった。ルシアンが何をしに来たのかはわかっていたが、自分を恥じるあまり友の顔を見られなかったからだ。魔物のせいで彼がどんな思いに耐えているか、ルシアンは理解している。しかし彼がしたことは理解してくれないだろう。
「そのつもりだ。放っておいてくれたら確実にそうするよ」
「意味はわかっているはずだ」
ルシアンの声に笑いはなかった。
「話がしたい」
清らかな薔薇の香りがあたりの空気を満たした。晩冬の夜に似つかわしくないその香りに、レイエスは春の野に立ったような気がした。人間ならこれを気持ちの落ち着く香りだと思うだろう。ぼうっとするあまりルシアンの言葉にただ従うかもしれない。だがレイエスにとっては気にさわるだけだ。数千年もいっしょにいるのだから、この香りが彼になんの効力も持たないことなどルシアンも知っているはずだ。
「明日でいいじゃないか」
跳べ!
「今話したい。それが終われば好きにすればいい」
数週間前の罪を認めろと言うんだな?冗談じゃない。罪悪感と恥と悲しみは精神的な苦痛をもたらすが、それでは魔物は満足しない。肉体の苦痛のみが救いをもたらす。レイエスが常に感情を守ろうとするのはそれが理由だ。
そうだ、おまえはなかなかうまくやってきた。
レイエスは舌で歯をなめた。この皮肉の言葉をささやいたのは自分だろうか、それとも魔物だろうか。
「ルシアン、今はそういう気分じゃない」
「それは皆同じだ。このおれもな」
「だがおまえには慰めてくれる女がいる」
「おまえには友がいる。おれもいる」
“死”の番人ルシアンは人の魂をあの世へと連れていく。天国か、あるいは地獄の業火の中へ。ルシアンはいつも冷静沈着で、穏やかでさえある――たいていは。ルシアンは皆のリーダーであり、ここブダペストの砦に住まう戦士たちは彼に導きと助けを求める。
「話してみろ」
仲間の手を振り払うのはいやだったが、自分がした恐ろしい所業はルシアンに知られないほうがいいにきまっている、とレイエスは自分に言い聞かせた。 そう思いながらもそれが嘘だとわかっていた。勇気に欠けるのは恥ずべきことだ。
「ルシアン」
レイエスは口を開いたがすぐにやめた。そしてうなった。
「軌道着色液が薄れたせいでアーロンの居場所がつかめないんだ。アメリカであの人間たちを殺したのがアーロンだとしても、今あいつが何をしているか誰も知らない。マドックスは、アーロンが地下牢を脱獄した直後におまえを呼んだと言っている。サビンの話では、おまえはローマにある“語ってはならぬ者の神殿”からあわてて出ていったそうじゃないか。どこへ行っていたのか教える気はないか?」
「ない」
それが本音だ。
「だが安心してくれ。アーロンはもう人を殺すことはできない」
一瞬の間があり、薔薇の香りが強くなった。
「どうしてわかる?」
その質問には刺があった。
レイエスは肩をすくめた。
「何があったかおれが言おう」
鋭かったルシアンの口調に、今度は期待と恐れが感じとれた。
「おまえはあの女を守ろうとしてアーロンを追いかけたんだ」
あの女。アーロンは彼女をさらった。タイタン族のあらたなる神々に殺せと命じられたからだ。彼女を一目見ただけで、その存在はレイエスの心の奥深くに忍びこみ、行動を支配し、恋に悩む愚か者に変えてしまった。
一瞬からみあった視線が彼の人生を変えた。いいほうに変えたのではない。それでもルシアンが彼女の名を言わなかっただけでレイエスは気分を害した。頭蓋骨に一撃を受けるより彼女がほしい。“苦痛”の魔物を宿す者にとってそれは大きな意味を持つ。
「どうなんだ?」
ルシアンが問いつめた。
「そのとおりさ」
レイエスは唇を閉じたまま言った。否定しても始まらない。心の中は乱れきっていて、これ以上口を閉じていても気持ちの乱れが高まるだけだ。それに仲間よりも誰よりもこの自分が自分を憎んでいる。
「おれはアーロンを追った」
その言葉が鎖のように重く宙に漂い、レイエスは口をつぐんだ。
「見つけたんだな?」
「見つけた」
レイエスは肩をそびやかせた。
「見つけただけじゃない……倒した」
ルシアンが一歩踏み出すと、ブーツの下で岩が崩れた。
「殺したのか?」
「殺すよりひどい」
レイエスはまだ振り返らなかった。待ち受ける地面をものほしげに見つめる。
「地中に閉じこめたんだ」
ふいに足音が止まった。
「埋めたが殺していないというのか?」
ルシアンの声は困惑に揺れた。
「どういうことだ?」
「あいつはダニカを殺すところだった。あいつの目の苦しみを見て、殺したくないと思っているのがわかった。邪魔をしたら感謝してくれたよ。ルシアン、あいつはおれに礼を言ったんだ。そして頼んだ。二度とこんなことができないようにしてくれ、頭を切り落としてくれ、と。だがそれはできなかった。剣を振りあげたものの、下ろせなかった。だからケインにマドックスの鎖を持ってこさせた。マドックスにはもう用ずみのあの鎖で、アーロンを地下につないだんだ」
呪いのせいで、かつてレイエスは毎夜仲間であるマドックスをベッドにつなぎ、六度刺さなければならなかった。朝になればマドックスは目覚め、またその儀式を繰り返すことになる。なんという友だろう。
何百年かたつうちにマドックスは呪いを受け入れた。それでも彼を縛りつけなければならなかった。“暴力”の番人であるマドックスは、たとえ相手が仲間であっても、いきなり襲ってくることがあったからだ。戦士の力を持つマドックスは人の作った金属など簡単に破壊してしまう。そこで神々が枷を作った。この鎖の枷はたとえ不死の身であっても正しい鍵がなければ取りはずせない。
マドックス同様アーロンもこの鎖の前には無力だった。最初レイエスは彼にこの鎖を使おうとしなかった。アーロンの自由を奪うのがいやだったからだ。ところが残念なことに、マドックスのときと同じく、アーロンにも鎖が必要になってしまった。
「アーロンはどこにいる?」
その質問の奥には、望みのものを手に入れることに慣れている男の自信がひそんでいた。いかなる遅れも容赦しない男の命令だ。
レイエスに恐怖はなかった。ただ、きょうだいのように愛するこの戦士を落胆させるのが苦しいだけだ。
「それは言えない。アーロンは自由を望んでいない」
たとえ望んだとしても、彼を自由にすることはないだろう。
それがレイエスが背負う罪悪感という名の十字架だ。
二人の間に沈黙が忍び寄った。期待で引き延ばされた沈黙が。
「おれなら見つけ出せないことはない。それはわかっているだろうな?」
「ここへ来たのは見つけられなかったからじゃないのか」
ルシアンなら霊界に入りこみ、一人に一つしかない魂の痕跡を追うことができる。だが時として痕跡はかすれ、汚されてしまう。
アーロンの痕跡は汚されてしまったに違いない。アーロンはもう昔の彼とは違うのだから。
「そのとおりだ。アーロンの痕跡はニューヨークで途絶えた」
ルシアンは静かに言った。
「捜索を続けてもいいが、それには時間がかかる。今は時間を無駄にはできない。すでに二週間がたったからな」
それはレイエスが誰よりもよく知っている。一日一日が首を絞める縄となり、不安が積み重なっていくのを感じていたからだ。彼らの宿敵ハンターは今この瞬間もパンドラの箱を探している。戦士たちから魔物を吸い取って閉じこめ、戦士を死に追いやるために。
生き残りたければパンドラの箱を先に見つけるしかない。
レイエスは混乱したまま生を終える気はなかった。
「アーロンの居場所を教えてくれ。教えてくれたらあいつを砦に連れ戻す。そして地下牢につないでおく」
レイエスは鼻で笑った。
「一度逃げたんだ、また逃げるさ。たとえマドックスの鎖があってもな。血に飢えたあいつはかつてない力を持っている。今のままにしておいたほうがいい」
「あいつはおまえの友であり、おれたちの仲間でもある」
「アーロンはゆがんでしまった。それはわかってるはずだ。あいつは自分が何をしているかほとんどわからない。チャンスさえあればおまえだって殺すだろう」
「レイエス――」
「あいつは彼女を殺してしまう」
THE DARKEST PLEASURE
by Gena Showalter
Copyright © 2008 by Gena Showalter
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