ルシアンはおいしそうな唇をまたしても引き結んだ。頬がどんなに傷だらけでも、あの唇の美しさをそこなうものは何もない。そう思うのは、その柔らかさを知っているからだろうか。魂に焼きついているからか。彼女は永遠にあの口づけの記憶とともに生きるのか。
「そうだ」
彼はしぶしぶ答えた。
「寛大な申し出はありがたいけど、断るわ、恋人。明日まで待つより、今すぐあなたを殺して片をつけたいの。だって、あなたの存在が気に障りはじめたんだもの」
ルシアンは体をこわばらせた。彼に感情なんかないことを知らなければ、今の言葉に傷ついたと思うところだ。
「どっちが無礼だ」
ルシアンは冷ややかに言った。
彼が傷だらけだからだと思ったのだろうか?でも、この誤解を解こうとすれば、話が長引くだけ。だからアニヤはこう言った。
「どうやって戦う?」
彼女は短剣を空中に投げ、柄をつかんでそれを手のなかでまわした。
ルシアンは、この対決よりもいやなことなど何ひとつないかのような顔で彼女を見た。
「忘れるなよ。戦うのを選んだのはおれじゃない、きみのほうだぞ」
「あなたはわたしを追ってきた。選んだのはあなたよ」
その言葉が終わらぬうちに鼻が触れあうほど近くルシアンが現れた。アニヤは驚いて息をのみ、薔薇の香りを深く吸いこんだ。ルシアンは短剣のひとつをアニヤの手から叩き落とし、すばやく残りを奪おうとした。
アニヤは彼のすぐ後ろに瞬間移動し、後頭部を蹴った。なぜ背中を刺さないのか自分でもわからない。
ルシアンは前によろめいたものの、踏みとどまり、さっと振り向いてアニヤをにらみつけた。
「あなたが殺すところは見たことがある。どう動くかわかってるの。わたしを倒すのは簡単じゃないわよ」
アニヤはふたたび彼の後ろに瞬間移動したが、ルシアンもさっきより賢くなっていた。彼はくるりと振り向き、アニヤが現れた瞬間に片方の腕をウエストにまわし、もうひとつの短剣を叩き落とすことに成功した。
アニヤは彼の腕のなかに戻った快感に、もう少しで歓びのうめきをもらしそうになった。荒々しい戦いのせいでいっそう興奮が募る。危険なほどそこに長く留まっていると、ルシアンの高ぶりを感じた。彼も興奮しているの?ああ、ベイビー、彼も求めている。つまり、彼もこの決闘が気に入ったわけ?なんてすてき!それにとてもいい気分。
「とっても硬くなってるのね。汚い手を使うのが残念なくらい」
アニヤは彼の股間に膝蹴りを決める直前にそう言った。
ルシアンは吼えるような声をあげ、体をふたつに折った。
アニヤは我慢できずに笑いながら、少し離れた場所に瞬間移動した。
「あなたが違う理由で追いかけてきていたら、いけないアニヤもずっとやさしくしてあげたでしょうに」
「最後にもう一度言う。おれはきみを痛い目に遭わせたくない」
ルシアンは歯ぎしりしながら繰り返した。
「仕方なくきみを殺すんだ」
アニヤは自分の爪に目を落とし、あくびをした。
「戦う気があるの?これじゃつまんないわ。あなたはいつもこんなに弱いの?」
彼をばかにしたのは失敗だったかもしれない。火をつければ火傷する。ルシアンは次の瞬間にはアニヤのすぐ前にいて、くるぶしを蹴り、彼女を地面に倒した。背中が地面に打ちつけられ、アニヤは息を吐き、つかのま酸素の欠乏でめまいを感じた。
気づいたときには、ルシアンにのしかかられていた。自由な両腕を生かし、アニヤはすぐさま彼の鼻を殴った。ルシアンの顔が横に揺れ、骨が折れた鼻から血が滴る。だが、その骨はたちまちまっすぐになり、血も止まった。
ルシアンはアニヤをにらみつけた。
「卑怯だぞ。女らしく堂々と戦え」
浅い息をつきながら、アニヤの手首をつかんだ。
ルシアンは信じられないほどあっさりとアニヤの自由を奪った。アイアスも同じようにアニヤに馬乗りになった。でも、ほんの一瞬だけで、すぐさま振り落とせた。だが、どんなに一生懸命暴れても、ルシアンはびくともしない。そのうえ、アニヤはさきほどの殺意に燃える怒りとは違うものに満たされていた。彼女は興奮していた。
「痛いわ」
彼女は嘘をついた。 ルシアンはアニヤの手首を放すという間違いをおかした。アニヤはふたたび彼を殴った。今度は目に一発。骨が砕ける音がして、すぐに腫れてくる。アニヤは笑いだし、それが黒ずむともっと激しく笑った。そして快復しはじめると口を尖らせた。
「もう瞬間移動はさせないぞ」
彼はアニヤを見つめ、しゃがれた声で言った。薔薇の香りが頭をぼうっとさせ、体の力を抜けと促す。ここのままおとなしくしていろ、もう戦うな、と。
アニヤは力を抜いて唇を舐めた。誘惑ゲームならお手のものだ。楽しむためじゃないわ、殺されないためよ、アニヤは自分にそう言い聞かせた。
「ええ、瞬間移動はしない。あなたのウエストに脚を巻きつけるところを想像するので忙しいもの」
ルシアンの瞳孔が広がる。彼はうめいた。
「やめろ」
「何を?」
彼女はとぼけて尋ねた。
「そういうことを言うな。そういう目でおれを見るな」
「あなたを食べたそうな目で、ってこと?」
ルシアンは痙攣するように頭を動かし、うなずいた。
「無理よ」
アニヤはセクシーな笑みを浮かべた。
「できるとも。してもらうぞ」
「こんなにおいしそうじゃなければ、やめるわよ」
かすれた声でそう言いながらも、アニヤはめまぐるしく頭を働かせていた。あなたは戦士よ。この男よりも強い不死の者たちとも戦ってきた。もう遊ぶのはおしまい。本気になるのよ。
アニヤは欲望を抑えつけ、最悪の日々にも自分を助けてくれた本能に頼り、ぱっと姿を消して彼の後ろに現れた。彼女を抑えていたルシアンが弾みを食らって、顔から砂のなかに突っこむ。
これしか方法はないの。きっぱり自分に言い聞かせ、口から砂を吐き捨てながら体を起こしたルシアンを蹴飛ばして、背中にまたがり、顎を力まかせにつかんだ。
そしてひねろうとした瞬間、彼の姿が消えた。ルシアンは少し離れたところに立っている椰子の木の前に現れた。アニヤは一瞬、地面に膝をついたものの、すぐに立ちあがった。ルシアンは近づいてこようとはしない。彼女は息を弾ませながら、脚についた砂を払った。ココナツと潮の香りが満ちたそよ風がこの状況をあざけるようなのどかさをもたらす。なんてこと。わたしはもう少しで彼を殺すところだった。アニヤはすっかり動揺してそう思った。
「このぶんでは、ふたりとも勝てそうもないな」
ルシアンが口を開いた。
アニヤはうぬぼれた笑みを顔に張りつけた。
「ばかばかしい。わたしは負けたことなんか一度もないわ」
彼が木の幹に拳を打ちつけ、赤い実を落とした。
「ほかの方法があるはずだ。きみが死ななくてもいい方法が」
その言葉にこめられた激しさが、アニヤの肌をうずかせた。ルシアンは彼女を助ける道を見つけたがっている。胸がきゅんとなり、ルシアンがこんなふうに自分の気持ちをあっというまに変えられることに驚きながら、アニヤはため息をついた。
「クロノスに嘆願するつもりなら無駄よ。あのタイタン族の気持ちは変わらない。それどころか、逆らおうとしたあなたをただじゃおかないわ」
ルシアンは途方に暮れたように腕を大きく広げた。
「どうしてクロノスは、自分できみを殺さないんだ」
「それは彼に訊くのね」
アニヤは見当もつかないというように肩をすくめた。
「アニヤ」
ルシアンが厳しい声で言った。
「教えてくれ」
「いや」
「アニヤ!」
「いやよ!」
彼女は短剣に飛びつくこともできた。ルシアンのすぐ前に立つこともできたが、黙ってルシアンの出方を待った。彼はどうするだろう?なんと言うだろう?
彼はさきほどのアニヤと同じようにため息をつき、両腕を脇に落とした。
「おれはどうすればいいんだ?」
「キスする?」
アニヤはからかったつもり、冗談のつもりだったが、情けないことに返事しだいでは、ルシアンのそばに駆け寄っていたに違いない。
ルシアンはまるでアニヤに刺されたかのように青ざめた。
アニヤは苛々して歯を舐めた。わたしにもう一度キスするのが、そんなにいやなの?
「どうしてわたしを憎むの?」
あっと思ったときには、この言葉が口をついて出ていた。なんてこと。まるで自分を恥じているようではないか。愛される資格などない女性みたいに。ごめんなさい、母さん。ディスノミアはそれではいけないと教えてくれた。
「憎んではいない」
ルシアンが低い声でつぶやく。
「ほんと?たった今、吐きそうな顔をしたくせに」
アニヤの言葉に、ルシアンの顔を皮肉な笑みがよぎり、すぐに消えた。アニヤはあまりにも驚いて、地面に倒れそうになった。ルシアンが本物の笑みを浮かべるとは。それもふるいつきたいほどセクシーな笑みを。病みつきになりそうだ。アニヤはすでに次の笑みを見たくてたまらなかった。ルシアンの笑顔は太陽と同じくらいまばゆい。
「だったらなぜ、この体がきみを欲しがっているんだ?」
ルシアンは皮肉な表情、皮肉な声で言った。
何よ、この男は誰なの?ほほえんだと思ったら、今度はからかってる。体がほてり、またしても胸の頂が硬くなるのを感じながら言い返した。
「男は相手が好きじゃなくても欲しがるわ」
ルシアンが答えようとするのを見て、アニヤはさえぎった。
「いいから黙って。あなたの意見なんか聞きたくない」
どうせせっかくの幸せな気分をぶち壊すに決まっている。
「いいからそこに立ってて、美しく。そのあいだに考えるから」
「きみはわざとおれを挑発しようとしているのか?」
たしかに、そのとおり。まったく愚かな作戦だ。ルシアンは彼女を殺せと命じられた。彼女に腹を立てるたびに、良心の呵責は少しずつなくなっていくだろう。でも、アニヤは挑発せずにはいられなかった。さっきの笑みが……。
「あなたには、いい考えはないの?」
「きみと分かちあいたい答えはひとつもないな」
ルシアンはただ立っているだけで、唾が湧くほどセクシーに見える。明るい日差しが恋人のように彼を愛撫し、黒い髪のまわりに天使のような光輪を織りあげていた。そう、天使のようだ。今の彼は堕天使で、アニヤの脈を速くし、みぞおちを震えさせた。
なぜ、ふたりはただの男と女になれないの?
わたしが欲しいように、彼も欲しがってくれないの?
それに、彼がわたしを殺せと命じられたことがわかっても、なんでまだこんなにも彼のことを求めているの?
「きみは事態を難しくしているぞ」
「わたしのために規則を破ってくれない?」
アニヤは目をぱちぱちさせながら尋ねた。
「ほんの少し便宜をはかってくれない?あなたはわたしに借りがあるのよ」
「だめだ。どちらもできない」
ルシアンがためらいもせずにそう答えるのを見て、アニヤはむかっときた。せめて少しぐらい考えてくれてもいいのに。ひどい男。彼をにらみつけて言う。
「もう一度同意するチャンスをあげるわ。それでおたがい、貸し借りはなし。すっきりさっぱりできるのよ」
「すまないが、それもだめだ」
そうなると、これにけりをつける方法はひとつしかない。
アニヤは短剣を取りに瞬間移動し、ルシアンのところにも瞬間移動した。目の前に姿を現され、驚いて目を開くルシアンの喉を柄の先で叩き、彼が息をつまらせているあいだにくるりとまわり、もう一本の柄で彼のこめかみを打つ。
ルシアンは意識を失う代わりに、うめき声をあげて膝をついた。それはかまわない。どちらでも結果は同じだ。こういう結末になったことを悲しく思いながら、アニヤはつかんだ短剣をまわし、鋭い先端をまっすぐルシアンに向けた。
両手が震え、アニヤのなかのすべてが、やめろとわめきたてている。だが、彼女は黒い頭を見下ろしながら短剣を十字に構えた。
THE DARKEST KISS
by Gena Showalter
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