遥か数千年前、ギリシャの神々に仕える気高き戦士たちがいた。だが彼らがパンドラの箱を開けたとき、世界に諸悪の魔物が解き放たれ、神々は罰として彼らひとりひとりの心に悪を封じ込めた。ある者は“暴力”、ある者は“苦痛”というように。こうして呪いをかけられた暗黒の戦士たちは、今も内なる魔物と闘いながらひっそりと生き続けている。しかし、戦士たちをつけ狙う宿敵ハンターがふたたび現れたとき、平穏な日々は終わりを告げた……。
男は闇の者として知られていた。マラク・ハ=マヴェット。ヤマ。アズリール。影を歩く者。マイリャ。死者の王。そのすべてであり、それ以上のもの。彼は暗黒の戦士だった。
はるか昔、男は女神の骨で作られた“聖なる箱”を開き、諸悪をこの地上に解き放った。その罰として、彼と仲間の戦士たちはそれぞれの心に魔物を棲まわされた。やがて光と闇、秩序と混乱が溶けあい、ついには、かつて神々を守っていた規律正しい戦士の名残をほとんど留めぬ存在となったのだった。
箱を開けた男は、“死”の魔物を宿すことになった。男の行動が世界の終焉をもたらしかけたことを考えると、公平な裁きだろう。
今は人間の魂を集め、最後の安息の地へと導く義務を課せられている。どんなに気が進まなくても、この義務は果たさねばならない。無邪気な子供たちを家族から引き離すのも、邪悪な魂を地獄へ届けるのも、決して喜ばしい仕事とはいえないが、彼はそのどちらも、疑問をさしはさまず、ためらわずに果たす。抵抗すれば、死ぬよりもはるかに恐ろしい思いをすることをほどなく学んだからだ。“死”の魔物に抵抗すれば、神々ですら思っただけで震えるほどの苦悶をもたらす。
男が従順なのは、やさしいからか?思いやりや慈愛があるからか?いいや。彼にはそういう軟弱な感情を持つゆとりなどない。愛や、思いやり、慈悲は、この仕事の敵だ。
だが、怒りは?憤怒は?これらはときとして抱くことがある。
男を怒らせる者に嘆きあれ。怒りは彼の内に宿る魔物、怪物を解き放つ。男は怒りに駆られ、人間の心臓をつかみ、容赦なくしめつける。相手が苦悶のあまり、彼だけが差しだせる永遠の眠りの甘い口づけを懇願するほどに強く。
そうとも。内なる魔物はたちまち抑えがきかなくなる。常に警戒を怠るなかれ。いつなんどき、彼らが襲いかからないともかぎらない……。
“無秩序”の女神にして“不法”の女神の娘、秩序を壊すことに喜びを見いだすアニヤは、こみあったダンスフロアの端に立っていた。踊っているのは、みな裸に近い服装の美しい人間の女、暗黒の戦士たちが今夜の楽しみにと、特別に選んだ女ばかりだ。
蔓のような煙がその女たちにまとわりついて夢をもたらす霧を散らすなか、ゆっくりまわる光源が星屑のような光を降らせ、暗いナイトクラブのなかにあるすべてを照らしていく。アニヤの目の隅では、恍惚とした表情の女を相手に腰を揺らしている戦士の引きしまった後ろ姿が見えた。
わたし好みのパーティね。アニヤは口もとをほころばせた。といっても、招かれたわけではない。
だけど、わたしを止められるものなんかひとつもないわ。
この魅力的な不死身の戦士たちは、かつてはパンドラの箱に閉じこめられていた魔物に取り憑かれている。彼らは何百年もわが家と呼んできた町、ブダペストを発つ前夜、強い酒ともっと強烈なセックスを楽しんでいるのだ。
アニヤはその楽しみに加わり、ひとりの戦士と踊りたかった。
「道を空けて」
彼女は“火事だ!”と叫び、大混乱を引き起こしたい衝動をこらえてささやいた。人間の女たちがパニックに襲われ、ヒステリックに叫びながら逃げ惑うのを見たいところだが、せっかくのパーティを台無しにすることもない。
声は彼女の鼓動と重なる激しいロックのリズムにかき消されたものの、女たちはおそらく自分でもよくわからない衝動に突き動かされて左右に分かれた。
アニヤの前が、少しずつ……開いていく。
ようやく目当ての男が見え、アニヤは熱い息を肺に閉じこめて体を震わせた。ルシアン。“死”の魔物に取り憑かれた、傷だらけのストイックな男。今は奥のテーブルにつき、無表情な顔で同じく不死身の戦士である、レイエスを見上げている。
何を話しているの?あの“苦痛”の魔物を宿す男に、踊っている女のひとりを呼んでこいと命じてるのだろうか?もしもそうなら、偽りの火事騒ぎよりもっとすごいことが起こる。アニヤは歯ぎしりしながら首を傾け、周囲のあらゆる音を消して、ルシアンとレイエスに集中し、聞き耳をたてた。
「――彼女の言うとおりだった。トリンのコンピューターで衛星写真を調べたんだ。たしかに古代の神殿が海から上がってきている」
レイエスは手にした銀のフラスクの中身をあおった。
「ひとつはギリシャ、もうひとつはローマだ。このまま同じ速度で上がりつづければ、明日にはなかに入れるだろう」
「なぜ人間が騒がない?」
ルシアンは二本の指で顎をかいた。これは彼の癖だ。
「パリスがニュース番組を見たが、その神殿の話は今のところ皆無らしい。憶測すらないそうだ」
愚かな男たち。あなたたちが神殿のことを知ってるのは、わたしが知らせたかったからよ。セックスの話ではないとわかってほっとしながらアニヤは思った。ほかの人々はふたつの神殿のことは知らない。たとえ知りたくても、見えないのだ。彼女は自分の力の最も強力な源である
“混沌”と呼ばれる特技を使って、人間を遠ざけておくために嵐で神殿を隠し、同時に暗黒の戦士たちがブダペストを離れ、出向く気になるだけの情報を戦士たちに流したのだった。
少しのあいだでいいから、ルシアンをブダペストといつもの生活から離すために。勝手のわからぬ場所でいつもと違うことをしている男は、支配しやすいはずだ。
レイエスがため息をついた。
「新しい神々の仕業かもしれない。おれたちが半分魔物だというだけでおれたちを憎み、滅ぼしたがってると思いたくなるよ」
そう聞いても、ルシアンの顔にはなんの表情も浮かばなかった。
「誰の仕業でも関係ない。予定どおり、明日の朝出かけるとしよう。早くその神殿を探したくてうずうずするよ」
レイエスは空っぽになったフラスクをテーブルの上に投げ、前にある椅子の背もたれを関節が白く変わるほど強くつかんだ。
「運がよければ、あのいまいましい箱が見つかるな」
アニヤは舌で歯を舐めた。レイエスが言った箱は、またの名を“聖なる箱”、もしくはパンドラの箱という。“抑圧”の女神の骨で作られたその箱はきわめて強固で、地獄ですら閉じこめておけなかったほど恐ろしい魔物たちを閉じこめることができる。そればかりか、今では暗黒の戦士の内にひそむ魔物を吸いとる力も持っていた。かつては気の進まない宿主であったにせよ、戦士たちは生き延びるために魔物を必要としている。自らのために、聖なる箱を求めていた。
ルシアンがふたたびうなずいた。
「そのことはもう考えるな。明日になれば、考える時間はいくらでもある。今夜の残りを楽しんでこい。おれのような退屈な男の相手をして、もう一秒でも無駄にすることはない」
退屈な男?どこが!こんなにどきどきする男に会ったのは、生まれて初めてなのに。
レイエスはためらったものの、ルシアンをひとり残して離れていった。人間の女たちはひとりもルシアンに近づこうとしない。ちらちら彼を見ているし、ひどい傷にたじろぐ。でも、彼に色目を使うことはない。命拾いしたわね。
ルシアンは売約ずみよ。
「わたしを見て」
アニヤは低い声で命じた。
アニヤは何秒か待った。ルシアンは従おうとしない。
その命令を聞いた女たちが、アニヤのほうを見た。だが、ルシアンは少しばかりわびしげなまなざしで、自分の前に転がった空っぽのフラスクを見つめている。驚いたことに、戦士たちには命令が効かないようだ。これも神々のおかげに違いない。
「いまいましいったら」
アニヤはつぶやいた。神々は隙さえあれば、アニヤの力を制限しようとする。卑しい“無秩序の女神”の力を奪えるチャンスはとにかく逃すな、と。
オリンポス山で過ごしていたころも、アニヤは人気者だとは言えなかった。女神たちはアニヤを“身持ちの悪い母親”と同じで、自分たちの夫をいつ寝取るかわからない、と嫌っていた。神々もディスノミアの娘であるアニヤを軽蔑していた。とはいえ、神々のほうはアニヤを欲しがった。まあそれも、アニヤが神々の大切な守護隊の隊長を殺し、残忍すぎるとみなされるまでのこと。
愚かな男たち。あの隊長は、殺されるだけの理由があったのだ。そうとも。もっとひどいことをされても当然だったくらいだ。アニヤをレイプしようとしたのだから。手を出そうとしなければ、今ごろはまだ生きていられたのに。でも、あいつときたら……。真っ黒な心臓を胸からえぐりとったことも、それを杭に突き刺し、愛と美の女神アフロディテの神殿の前にさらしたことも、アニヤは少しも後悔していなかった。
選択の自由を持つのは大切なことだ。彼女の自由を奪おうとする者は、短剣を突き刺されることになる。
選択。この言葉が頭のなかで鳴り響き、アニヤを今に連れ戻した。ルシアンに今夜の相手として選んでもらうには、いったいどうすればいいの?
「お願いよ、ルシアン。わたしに気づいて」
またしても、ルシアンは彼女を無視した。
アニヤは地団太を踏んだ。もう何週間も、姿を隠したままルシアンを追いかけまわし、見守り、じっと観察し……彼に恋い焦がれてきたのだった。ルシアンはまったく気づかなかった。アニヤは彼にありとあらゆるみだらな行為をさせようとした。服を脱がせたり、自慰をさせたり……笑顔にしたり、と。まあ、笑顔はみだらとは言えないが、彼の傷だらけの美しい顔がほころぶところが見たかった。一糸まとわぬたくましい体が、興奮して汗ばむのを見たいのと同じくらいに。
でも、彼はこのささやかな要求のひとつでも応えてくれた?いいえ!
ルシアンに会わなければよかった、と思うこともある。新たに神々の王となったクロノスから、何カ月か前に暗黒の戦士たちの物語を聞いて、心をそそられたのが間違いだった。愚かなのはわたしのほうかも。
そのときクロノスは、アニヤもとてもよく知っている神々の牢獄タルタロスを逃れたばかりだった。クロノスはゼウスとその取り巻きばかりか、アニヤの両親までそこに閉じこめた。アニヤが両親を助けようとそこに戻ると、クロノスが待ち構えていた。彼はアニヤが持っている宝を渡せと要求した。もちろんアニヤは断った。するとクロノスはアニヤを怖がらせようとした。
“わしの欲しいものを渡すのだ。さもないと、暗黒の戦士たちを送りつけてやる。戦士は魔物に取り憑かれ、腹をすかせたけものと同じくらい血に飢えている。一瞬のためらいもなく、その愛らしい肉を骨から引きちぎり……”
アニヤはクロノスの脅しに怖がるどころか、胸をときめかせ、自分のほうから戦士たちを捜しだした。彼らを叩きのめして、クロノスをあざ笑ってやろうと思ったのだ。図体ばかりでかいあなたの恐ろしい魔物たちなんか、ちっとも怖くない、と。
だが、ルシアンを見たとたん、彼に心を奪われた。そして自分が何をするつもりだったかすっかり忘れ、邪悪だとされている戦士たちの手助けさえしていた。
アニヤの心をかきたてるのは矛盾だ。ルシアンはその矛盾だらけだった。彼は傷だらけだが誇り高い。思いやりがあるがやわではない。落ち着いた、生真面目な男で、クロノスが言ったように血に飢えているわけではなかった。邪悪な魔物を宿しているとはいえ、自分の心にある名誉の基準から決してはずれない。昼も夜も死者を導いているのに、生き延びるために戦う。
なんて魅力的なの。
まるで、アニヤの興味を刺激するにはそれだけでは足りないかのように、彼が放つ花の香りが、近づくたびにアニヤをうっとりとさせ、いけない想像で満たす。どうしてなのか、アニヤにもよくわからなかった。薔薇の香りだなんて、他の男なら笑ってしまうに違いないのに。ルシアンの場合は、彼を味わいたくて唾が湧き、興奮のあまりぞくぞくして、彼に触れてもらいたくなる。
今も、こうしてただ見つめ、あの香りが漂ってくるのを想像するだけで肌がうずく。すると彼がなでているところが目に浮かび、震えが止まらなくなった。
ああ、なんてセクシーなの。アニヤはため息をついた。ルシアンの目はとても変わっている。ひとつは青くて、もうひとつは褐色。それぞれに男の精と魔物の精が渦巻いている。それにあの傷……。アニヤは、その傷跡をひとつ残らず舐めることしか考えられなかった。どの傷もとても美しい。彼が生き延びたあらゆる痛みと苦しみの証だ。
「やあ、ゴージャスな彼女。おれと踊らないか」
戦士のひとりが、突然かたわらで言った。
パリスだ。アニヤは好色なその声を聞いてすぐにわかった。壁に押しつけていた人間の女とのセックスが終わって、欲望を静めてくれる新しい相手を探しているのだろう。彼は常に探すしかないのだ。
「あっちへ行って」
すげなく断られても少しもめげずに、パリスはアニヤのウエストをつかんだ。
「楽しませてやるぞ」
アニヤは手首をひねって彼を脇に押しやった。“淫欲”の魔物に取り憑かれているパリスは、きらめくような白い肌と真っ青な瞳、天使たちがハレルヤを歌いだしそうな顔に恵まれている。だが、彼はルシアンではない。アニヤは彼に何も感じなかった。
「その手をどかして」
彼女はつぶやいた。
「さもないと、切り落とすわよ」
パリスは彼女が冗談を言ったかのように笑った。が、アニヤは本気で手ばかりか、ほかのものも切り落とすつもりだった。近ごろはささやかな無秩序で自分を抑えているが、空脅しを口にしたことは一度もない。そういう行為は軽く見られるもと。アニヤはずっと昔に、決してどんな弱みも見せまいと誓っているのだ。
弱みを見せれば、敵につけ入られる。
ありがたいことにパリスはそれっきり手を伸ばそうとはせず、かすれた声でこうささやいただけだった。
「キスしてくれれば、おれの手にどんなことでもさせてやる」
「キスなんかしてみなさい、あなたの分身も切り落とすから」
ルシアンを見ていたいのに、邪魔な男。こういうチャンスはめったにないことを思えばなおさらだった。最近は目覚めているあいだのほとんどを、クロノスから逃れることに費やしている。
「やってみる?」
パリスの笑い声が大きくなり、ルシアンの注意を引きつけた。彼が目を上げ、最初にパリスを、それからアニヤを見ると、彼女の膝の力が抜けそうになった。ああ、なんてすてきなの。パリスのことなどたちまち頭から吹っ飛び、アニヤは息をしようと努力した。色の違う瞳が燃えるように熱くなる。それとも、思い過ごしだろうか?ルシアンの鼻孔が興奮して広がったように見えたのも、ただの想像なの?
今がチャンスよ。アニヤは唇を舐め、ルシアンをひたと見つめたまま、音楽に合わせて腰を振りながら、彼のテーブルへと近づいていった。
THE DARKEST KISS
by Gena Showalter
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