けっして明けることがないように思える夜のあいだ、アシュリンはせまい部屋のなかを手探りで歩いてまわった。一歩踏み出すごとに足首がうずくのは、雪に覆われた丘を何時間もかけて上ってきたからだろう。
脱出できないものかとあがいても、その試みは無駄に終わった。グリム童話のラプンツェルの塔のように窓があるわけでもなく、邪悪な魔女が通り抜けに使う魔法の鏡もない。
がんばって隙間に体を押しこめるような鉄のバーもなければ、不思議の国のアリスに出てくるような地下のトンネルもない。携帯電話はどこかで落としてしまったらしい。もちろん、この独房では電波も届かないだろうけれど。
時間が経つにつれ、周囲を包む闇はどんどん勢力を増し、鼠の鳴き声さえ聞こえなくなっている。
家に帰りたい。アシュリンはふたたび床の上に縮こまった。今夜起きたことを何もかも忘れられたら、どんなに楽だろう。こんな目に遭うくらいなら、“声”とともに生きていたほうがまだましだわ。“声”をかき消そうとした結果がこれなんて。場合によっては仕事や、マッキントッシュ博士との友情も失いかねない。なけなしの正気さえ。
わたしはもうかつてのわたしではなくなってしまった。
マドックスの無惨な死に顔は、一生つきまとって離れないだろう。涙は、頬を伝うそばから冷たくなった。いったい幾粒の涙を流せば、この胸の痛みは消え去るのだろうか。
“お願い、ここから出して”
声がざわめきはじめた。
“お願いよ、誓うわ、絶対にこの場所には戻ってこないと”
わたしも誓うわ。アシュリンは悲しみをこらえ、心のなかで念じた。
「ひと晩中ここにいたのか」
混乱して返事もできず、沈黙がおりた。あの声……いま聞こえた声は過去の声ではない。荒々しく太い声は、いまだに耳のなかで響いている。
「答えるんだ、アシュリン」
その瞬間、アシュリンは声の主が誰なのかわかった。数えるほどしか耳にしていないのに、どういうわけか胸に深く刻まれている声。息をのみ、隅々に目を凝らすものの、そこにはただ闇があるばかりだった。
「アシュリン、答えるんだ」
「マドックス?」
でも、それはあり得ない。きっと幻聴か何かに違いない。
「質問に答えるんだ」
突然ドアが開き、洪水のように光が差しこんできた。アシュリンはまばたきをくり返し、視界をさえぎる金色の光輪に目を細めた。戸口に立っているのは長身の男だった。威圧的な雰囲気や隆々とした筋肉が、輪郭からも見てとれる。
やがてアシュリンは甘い沈黙に――数時間前、人生で一度だけ経験したあの沈黙に――すっぽり包まれた。
アシュリンは背後の壁に両手を這わせ、ゆっくりと立ちあがった。あまりの衝撃に、膝ががくがく震えている。まさか、どうして、嘘でしょ。どう考えても、現実的ではなかった。こんなことはおとぎ話のなかでしか起こらない。
「答えるんだ」
男はふたたび言った。声の調子には激しい怒りが混じりはじめている。男はまるでふたつの声で話しかけているかのようだった。けれども声はどちらも低く険しく、雷鳴のように空気を震わせている。
質問に答えようと口を開けても、言葉が出てこなかった。二重に聞こえる声はどんな悪夢よりも恐ろしく、同時に官能的な響きで心をかき乱している。マドックス。アシュリンは震えながら手の甲で涙に濡れた頬をぬぐった。
「どういうこと?」
つぶやくのがやっとだった。わたしは夢を見ているの?
マドックス、いや、その男は、独房のなかに入ってきた。彼自身、落ち着きを取り戻そうとするかのように、一瞬目をそらした。太陽の光は愛撫するようにその顔を照らしている。黒い眉、長いまつげ、紫色の瞳、形の整った鼻、官能的な唇。何もかもがマドックスと同じだった。
どうしてこんなことがあり得るの?わたしをこの部屋に閉じこめた男たちは、マドックスにそっくりな男を一夜にして創りあげたということ?近くにいるだけで“声”を止めることができる男を。
それとも、双子?
アシュリンは目を見開いた。そうよ、きっと双子なのよ。これでようやくつじつまが合う。
「あなたのきょうだいは殺されたわ」
気づくとそう口にしていた。もしかしたらもう知っているのかもしれない。殺されて、ほっとしているのかもしれない。けれども独房からいっしょに抜け出し、町に連れていってくれるという希望は捨てられなかった。この目で目撃した恐ろしい事件を警察に報告すれば、あとは正義が裁いてくれる。
「おれには兄も弟もいない」
男は言った。
「でも……でも……」
“マドックスならだいじょうぶだ”
たしかにあのハンサムな男はそう言ったけれど、いったい何がだいじょうぶだというの?アシュリンは首を振った。わたしはマドックスが死ぬところを見たのだ。でも、天使ならよみがえることも可能なのかもしれない。喉の奥に、固いしこりのようなものを感じた。この城の男たちは間違っても天使ではない。町の人々がなんと言おうと、残忍なあの男たちが天使だなんて。
戸口にいる男は、品定めでもするようにこちらの体を上から下まで見ると、低いうなり声をもらした。
「連中はひと晩中おまえをここに?」
独房のなかを見まわし、どんどん険しい顔つきになった。
「毛布や水は与えてもらったんだろうな。ないところを見ると、朝になって誰かが取りに来たのか」
アシュリンは震えながら顔に手をやり、頭をなでつけたが、もつれた髪に眉をひそめた。たぶん、体中に土のかたまりがついてひどい格好をしているに違いない。当然ながら、そんなことを気にかけている場合ではなかった。
「あなたは誰なの?何者なの?」
男は黙ったまま、顕微鏡で虫を観察するようにこちらに視線を注いでいた。それは〈協会〉の人間が自分に向ける視線と同じだった。
「おれが誰なのかはわかっているはずだ」
「でも、そんなはずないわ」
アシュリンは断固として否定した。もしこれが現実なら、戸口に立つ男は残虐な行為をした怪物のような男たちと同類ということになる。
「わたしのマドックスは死んだのよ」
「おまえのマドックス?」
炎が灯ったように、その瞳が光った。
「おまえの?」
アシュリンは勇気を奮い起こして顎を上げ、答えを拒否した。
男は口元をほころばせ、微笑みのようなものを浮かべて、片腕を差し出した。
「さあ、こっちに。汚れを落としてさっぱりして、体を温めてやろう。ずいぶん腹もすいているだろう。説明できることは……そのあとでする」
その一瞬の間は、説明などするつもりがないことを物語っていた。きっと頭のなかではほかのことを考えているに違いない。アシュリンはその場を動かず、ただただ怯えていた。
「おなかを見せて」
しばらくしてアシュリンは口を開いた。
男は差し出した手の指をさっと折り曲げた。
「さあ、こっちに」
どこへでも導かれるところに行きたい。そう思う自分もいた。何しろ戸口に立つ男はマドックスそっくりなのだし、マドックスと出会えたことは人生のなかで最高のできごとだった。それでも、アシュリンはその場を動かなかった。
「いやよ」
「いいから来るんだ」
アシュリンは首を振った。
「絶対に動かないわ。あなたがおなかを見せるまではね」
「アシュリン、おまえを傷つけはしない」
その言葉は独房のなかでこだますることなく四方の壁に吸いこまれた。男が口にする自分の名前は、官能的な響きを帯びている。そこには明らかにある種の欲望があった。
「アシュリン」
男はくり返した。
THE DARKEST NIGHT
by Gena Showalter
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