• TOP
  • STORY
  • CHARACTER
  • SPECIAL
  • TRIAL
  • GALLERY
  • BOOKS&COMICS

TRIAL 試し読み

マドックス

  • 第1話
  • 第2話
  • 第3話
  • 第4話
  • 第5話
  • 第6話
  • 第7話
  • 第8話
  • 第9話
  • 第10話
  • 第11話
  • 第12話
  • 第13話
  • 第14話
  • 第15話

第1話

死は毎晩訪れた。ゆっくりと、激しい痛みをともなって。そして毎朝、マドックスはベッドで目を覚ました。今夜もまた死なねばならないのだという絶望とともに。それが自分にかけられた非情なまでの呪いであり、永遠に逃れられない罰だった。マドックスは歯に舌を這わせ、刃先で敵の首を切り裂く光景を思い浮かべた。今日という日はすでに終わろうとしている。時間は耳の奥で毒が滴るような不快な音をたて、どこへともなく過ぎ去った。時計の針はくり返される死と痛みをあざ笑うように、刻々と時を刻んでいる。あと一時間もしないうちに、腹部をつらぬかれて最初の激痛に見舞われるだろう。そうなったら最後、何をしたところで、何を叫んだところで、結局は無駄。死は、確実にやってくる。

「何が神々の呪いだ」

マドックスはつぶやき、ベンチプレスのスピードを上げた。

「神なんてみんな名ばかりさ」

背後からなじみのある声が聞こえたのはそのときだった。
ジムとして使われている部屋に突然トリンが入ってきても、マドックスはバーベルを上げ下げする手を止めなかった。サンドバッグに始まり、トレッドミル、そして今度はウエイト・トレーニングと、鬱積するいらだちや怒りをごまかそうと、もう二時間も運動を続けている。裸の上半身に浮かぶ汗は輝く無数の粒となり、胸や腕の筋肉を伝うように流れ落ちていた。これだけ肉体を酷使すれば、精神も疲れ果てるのが普通なのだが、荒々しい感情は静まるどころか、闇の部分を増幅させ、いっそう激しさを増している。

「この時間におれに会いに来るなんて賢明じゃないな」

マドックスは言った。
トリンはため息をついた。

「邪魔をするつもりはない。だが、問題が起きた」

「だったら自分で片づけたらどうだ」

「それができないからこうして来た」

「どんな問題が起きたのか知らないが、なんとかそっちで対処してくれ。おれはいま手を貸せない」

とくにここ数週間は、ちょっとしたことで頭のなかにもやが立ちこめ、周囲にいる者を誰彼かまわず殺したい気分になった。相手が友人であっても例外ではない。いや、友人であればなおさら危険だった。もちろんそんなまねはしたくないし、するつもりもないが、破壊的な衝動の前では意志の力などあまりに無力だった。

「マドックス――」

「もうそろそろだということはおまえもわかっているだろう、トリン」

マドックスは低い声をしぼり出した。「おれが手を貸せば、かえって混乱を招く」

マドックスは自分の限界を心得ていた。その自覚は数千年前から変わらない。そう、神々が自分に課せられるべき役目をある女に託した運命の日から。たしかにあの時代、パンドラは女戦士のなかでもいちばんの力強さを誇っていた。しかし、力強さにおいては自分のほうが確実に上だったし、能力もあった。なのに聖なる箱を守るには充分でないと見なされるとは。地獄でも容易に信用されないような邪悪な悪魔を封じこめた聖なる箱。その箱が壊されるのを、おれがみすみす許すとでも?
そんな屈辱を味わわされ、不満は一気に爆発した。自分だけではない。いまこの城にいるほかの戦士たちも、まさに同じような思いを噛みしめていた。我々は神々の王の忠実なしもべとして、数々の敵を倒し、徹底して秩序を守ってきた勇敢な戦士だ。聖なる箱の番人には、本来自分たちが選ばれるべきだったのだ。しかし結局、その役目を言い渡されたのはあのパンドラ。それは耐えがたい屈辱だった。
あの夜パンドラから箱を奪い、純然たる世界に諸悪を解き放ったのは、神々に対する当てつけにすぎなかった。いまにして思えば、なんという愚かな過ちを犯してしまったのだろう。自分たちの力を証明しようとした試みは、見事に失敗に終わった。混乱のなか、肝心の箱は行方がわからなくなり、世界は悪魔を閉じこめるすべを失ったのだ。
破壊と混乱はすぐにその勢力を増大させ、世界は闇に包まれた。その惨状を見かねた神々の王は、ついに重い腰を上げ、戦士ひとりひとりの心に悪魔を棲みつかせた。
皮肉な罰だ。傷つけられたプライドを取り戻そうと悪魔を解き放った結果、みずからがその棲み家となって、邪悪な霊を抱えたまま生きつづけなければならなくなったとは。
こうして、暗黒の戦士たちは生まれた。
自分に与えられたのは“暴力”だった。その悪魔はいまや肺や心臓と同じように、ほとんど体の一部と化している。もはやこの身は魔物なしに存在することはできず、魔物もこの身を失っては存在することができない。双方はまさに一心同体の関係にあるのだ。
最初は内側に巣くった魔物の誘惑に屈し、悪事を働くほかなかった。パンドラをこの手で殺すことになったのも、悪のささやきに負けたからだ。マドックスは指の関節が外れそうになるほど強くバーベルを握りしめた。たしかに長い年月を経て、悪意に満ちた衝動はなんとか抑えられるようになっている。しかし、絶え間ない闘いに、張りつめているものがいつ弾けてもおかしくはなかった。
たとえ一日でも平穏な時間が過ごせるなら、何を差し出したってかまわない。他人を傷つけたいという衝動に支配されることなく、内なる葛藤からも解放されて、死とは無縁の平和な世界で生きられたら……。

「とにかくこの時間におれの部屋に来るのは危険だ」

マドックスは友人に向かって言った。トリンはいまだにドアのそばに立っている。

「出てってくれ」

マドックスはバーベルをかけて体を起こした。

「おれが死を迎える際に近くにいて危なくないのは、ルシアンとレイエスくらいだ」

実際、永遠なる死の拷問の一端をになうふたりに危険が及ぶことはない。ルシアンやレイエスにとっても、仲間の命を奪うことなど本意ではなかったが、内に潜む悪魔の前ではふたりとも無力だった。

「まだ一時間ある」

トリンはタオルを投げた。

「危険は承知のうえだ」

背後に手を伸ばして白いタオルを受けとったマドックスは、ふたたび向き直って顔を拭いた。

「水」

その言葉を口にするなり、冷えた水の入ったボトルが宙を舞って手に収まった。ほてった体からは湯気が立っている。マドックスは冷たい水を飲みながら友を見つめた。
トリンはいつものように全身黒ずくめだった。しっかりと手袋もはめている。ウェーブのかかった銀色の髪は、人間の女たちがひと目で欲情をそそられる顔の輪郭をなぞるように、両肩まで垂れている。人間たちはトリンが天使の皮をかぶった悪魔であることなど知るよしもない。けれども頭を冷やしてよく見れば、何かが違うことに気づいてもおかしくはなかった。トリンが人間に対して抱く軽蔑の思いは、全身からにじみ出ている。緑色の美しい目もまた、神聖なものとは対極にある邪悪な輝きを放っている。きっとこの男は誰かの心臓をえぐりとるあいだも――あるいは自分の心臓をえぐりとられるあいだも――悪意に輝く目で相手の顔をのぞきこみ、けらけらと笑い声をあげるに違いない。
ブダペストのこの城に住む者がみなそうであるように、トリンもまた呪われていた。自分のように毎晩死ぬ運命にあるわけではないが、トリンは、生きているものに手を触れることをけっして許されない。肌に触れようものなら、確実に相手に病を移すことになる。
トリンは“病”という魔物に取り憑かれていた。
その昔トリンが欲望に屈し、恋した女の顔に触れたせいでみずからが引き起こしたのは、疫病の蔓延だった。病は村という村を滅ぼし、数えきれないほど多くの命を奪った。

「五分だけだ」

トリンはあくまでもゆずらなかった。

「それくらいかまわないだろう」

「今日もおれたちは神々を侮辱したかどで罰を与えられるのか」

マドックスはあえて友人の言葉を無視した。頼みごとがなんであるのか聞かなければ、断ってうしろめたい思いをすることもない。
トリンはため息をついた。

「おれたちにはひと呼吸ひと呼吸が罰のようなものだ」

たしかに。マドックスは冷たい笑みを浮かべ、天を仰いだ。くそったれの神め。そんなに罰したいなら、手加減せずとどめを刺したらどうだ。そうすれば、この苦しみから解き放たれて、消えてなくなることができるかもしれない。
しかし、神々が自分たちのことなど気にかけているはずもなかった。死の呪いをかけて以来、完全に無視を決めこみ、赦しを乞う声にも耳を傾けずにいる。いくら条件を提示して訴えかけても、取り引きにはがんとして応じようとしなかった。
だが、これ以上の罰などあるはずもない。
永遠に死をくり返し、いっさいの善意や良心を取りあげられ、“暴力”という名の魔物に身も心も支配されるより悪いことなど。
マドックスは跳ねるようにして立ちあがり、濡れたタオルと飲み干した水のボトルを手近にある枝編みのかごに放った。そしてステンドグラスで装飾された半円形の出窓のほうに向かい、両手を頭の上にのせて宵闇に目を凝らした。
視線の先に見えるのは、天国であり、地獄でもあった。そこには自由があり、束縛があった。すべてがあると同時に、何もない世界。自分たちの住処。
小高い丘の頂上に立つ城からは、さえぎるものもなく町の全体が見渡せた。淡い赤、青、紫に輝く町の明かりは、ビロードで覆われたような空を照らし、ドナウ川の川面に反射して、雪をかぶった木々を浮かびあがらせている。吹き荒れる風に雪が舞い、渦を巻いて空を駆けめぐった。
ほかの戦士たちと住むこの城には、下界から隔絶されたプライバシーがあった。この要塞にこもって日々を送っていれば、数々の質問にさいなまれることもない。なぜ年をとらないのか?なぜ毎晩森に叫び声が響き渡るのか?なぜときに怪物のように見えるのか?
地元の人間はそれぞれに畏怖や尊敬の念を抱き、丘の上の城に住む自分たちから一定の距離を置いていた。めったに接触する機会はないが、“天使”とささやかれるのを耳にすることもあった。
ほんとうのことを知ったら、どんな反応をするだろう。
マドックスはかすかに伸びた爪を石の壁に食いこませた。ブダペストは荘厳な美しさを誇る町だ。古き良き時代の味わいと現代の魅力が融合した町。それでもマドックスは、この地になじめなかった。通りという通りにナイトクラブができた城地区も、果物や野菜、それに鮮魚や生肉の露店が並ぶ活気ある路地も、自分とはいっさい無関係だった。そんな疎外感も、ほかの戦士たちのように外に出て町を散策すれば消えてなくなるのかもしれない。だが数千年前に“暴力”がパンドラの箱にしっかり閉じこめられていたように、自分もまた、この城の敷地内に完全に閉じこめられている。
先ほどから伸びはじめた爪は、すでに獣のかぎ爪のようになっている。あの箱のことを思い浮かべると、決まってもやもやした霧が頭に立ちこめた。

壁を叩け、と“暴力”の魔物がささやいた。

何かを壊せ、傷つけろ、殺せ。

マドックスは神々をひとり残らず抹殺したい衝動に駆られた。つぎつぎと首をはね、腐敗して黒ずんだ心臓をえぐりとりたかった。
内なる魔物はその衝動を煽るように満足げに喉を鳴らした。
マドックスは思わず吐き気をおぼえた。悪意を向ける対象が誰であろうと、なんであろうと、血なまぐさい残虐な行為はつねに魔物を喜ばせる。マドックスは怒りの炎を目に浮かべ、ふたたび天をにらみつけた。魔物が体に棲みついて数千年経ったいまでも、あの日の悲惨な光景は鮮明に脳裏に焼きついている。数々の叫び声が響き渡るなか、なんの罪もない人間たちがいたるところで血を流し、苦しみもだえながら死を迎えた。そして死にゆく人間たちを、悪魔どもは狂喜乱舞しながらむさぼり食っていたのだ。
“暴力”がこの身に封じこまれ、現実との接点を失ったのはその瞬間だった。そこには音も光もなく、すべてを包みこむ闇だけがあった。なんとかその闇をくぐり抜け、はっと我に返って目にしたのは、みずからの胸に飛び散ったパンドラの血だった。息絶える際に彼女がもらした声は、いまも耳に残っている。
この手で命を奪ったのは彼女が最初でも最後でもないが、女を相手に剣を抜いたのはパンドラがはじめてだった。生気に満ちた女の体が切り裂かれているのを目の当たりにしたときの戦慄。しかもその悲劇を招いたのは、ほかでもない自分。罪悪感や後悔の念、やり場のない怒りや悲しみは、いまでもけっして薄れることがない。
以来、内なる魔物を抑えるためならなんでもすると心に誓ったが、時すでに遅し。激怒した神々の王ゼウスは、パンドラが死んだのとまったく同じように毎日真夜中におまえは死ぬのだと、さらなる呪いをかけたのだった。そう、腹部を六回、剣で突き刺されて。パンドラの断末魔の苦しみは数分で終わった。
だが、おれの場合は永遠にくり返される。
マドックスは拳で顎を殴り、攻撃的な衝動が込みあげるのを抑えた。永遠の呪いにさいなまれているのは、自分だけではない。この城に住むほかの戦士たちも、それぞれ内に魔物を抱えている。トリンは“病”、ルシアンは“死”、レイエスは“苦痛”、アーロンは“怒り”、そしてパリスは“淫欲”という名の魔物を。なぜおれに“淫欲”があてがわれなかったのだろう。“淫欲”の番人になっていれば、好きなときに町に出かけ、好みの女を誘惑し、あえぎ声や肌の感触をたっぷり味わうことができたのに。
しかし、現実には町に出るのは危険すぎた。長い時間を女といっしょに過ごすほど、自分を信用できるかも疑問だった。魔物に屈して意志を乗っとられれば、何をしでかすかわからない。それに、真夜中までに部屋に戻れなければ、取り返しのつかないことになる。血まみれになって死んでいるところを見つかれば、そのまま墓に埋められてしまうかもしれないし、最悪の場合、死体を焼かれてしまうことだってある。
一方で、この惨めな生を終わらせることができたらどんなに楽だろうと思う自分もいた。それが可能であれば、死体を焼かれることなど恐れずとっくに町に出ている。あるいは城にあるいちばん高い窓から飛びおりて、この身を地面に叩きつけている。しかし何をしようと、永遠の再生を免れることはできない。頭蓋骨がこなごなになっても、焼かれて丸焦げになっても、あるいは剣で突き刺されても、結局は息を吹き返してよみがえった。

「いつまで窓の外を眺めているつもりだ」

トリンが言った。

「いったい何が起きたのか知りたくないのか」

現実に引き戻されたマドックスは、友のほうに向き直った。

「まだいたのか」

トリンは眉をつりあげた。その眉は黒々として、白に近い銀色の髪と驚くほどの対照をなしている。

「どうやら質問の答えはノーらしいな。だが、少なくともいまのところは、話ができるくらいは落ち着いているんだろう?」

神々に呪われて以来、真に心の平穏を味わったことなどあったろうか。

「怪物にしては落ち着いたものだ」

「愚痴をこぼすな。見てもらいたいものがあるんだ。今回ばかりは無下に断らないでくれ。こんな時間に邪魔に入った理由は途中で話す」

PAGE TOP