女はアーロンの推理を裏づけた。
「というより、元天使ね」
女がぎゅっとまぶたを閉じると涙がまつげを濡らした。顎が震えている。
「今は何者でもないわ」
女の言葉は本当だとアーロンは思った。信じないなんて無理だ。この声……できることならこの女のことをなんでもいいから疑いたいが、できなかった。アーロンは震える手を伸ばした。おれはがきか?しっかりしろ。
弱さをさらけ出した自分に顔をしかめながら、アーロンは手にぐっと力を入れ、傷に触れないように気をつけて女の髪を払った。ローブの襟ぐりをつかんでそっと引っ張ると、やわらかな生地は簡単に裂け、女の背中があらわになった。
アーロンの目がまた丸くなった。肩胛骨の間、本当なら翼が生えているところは皮膚が裂けて二本の傷が走っている。背骨まで腱が切れ、筋肉は裂けて骨がのぞいている。暴力的なむごたらしい傷で、まだ血がにじんでいる。アーロン自身、無理やり翼をむしり取られたことがあったが、あれは長い一生の中でもいちばんつらい経験だった。
「何があった?」
自分の声がかすれているのがショックだった。
「地上に堕とされたの」
その声は恥辱に満ちていた。女は枕に顔を埋めた。
「もう天使じゃないのよ」
「どうして?」
アーロンはこれまで天使に会ったことがなく、この種族のことはよく知らなかった。もっともライサンダーは別だが、あのひねくれ者は大事なことは何ひとつ話そうとしないから天使の数に入らない。知っているのはレギオンからの情報だけだが、レギオンは憎しみで真実をゆがめているにちがいない。レギオンから聞いた話と目の前の女性の姿は全然噛み合わなかった。
レギオンの話では、天使というのは感情も魂も持たない生き物で、邪悪な神の使いである悪魔を倒すことだけを目的にしているという。そしてしばしば肉の誘惑に負け、呪うべき相手の男や女に魅了されてしまう。そういう天使は地獄に突き落とされ、かつて倒した悪魔に今度は復讐されるというのだ。
この天使もそうなのだろうか。地獄に堕とされ、悪魔に苦しめられたのだろうか?おそらくそうだ。
いましめを解くべきだろうか?女の目は……誠実で罪がない。そして助けて、救ってと言っている。
それより強く聞こえるのは、抱きしめて二度と離さないで、という言葉だ。
アーロンは前に一度こういういたいけな罠に引っかかりそうになって我に返った。バーデンも同じような罠にかかり、命を落とした。
抜け目ない男なら、まずこの女のことをもう少し調べるだろう。
「誰に翼を奪われた?」
噛みつくような口調で言えたことに満足し、アーロンはうなずいた。
女は息をのみ、身を震わせた。
「昔、わたしは――」
「アーロン、ばかなことをしたな」
男の声がして、天使は口を閉じた。
「まさかおまえ……」
部屋に入ってきたパリスは、オリヴィアの姿を見て足を止めた。
「本当だったんだな。外に出てこの女を捕まえたのは」
オリヴィアは身を硬くし、顔を隠そうとした。泣いているのか、その肩が震えている。今になって怖くなったのか?
なぜだ?女はパリスを見るとうっとりするのに。
集中しろ。なぜ彼のしたことを知っているのかパリスにきくまでもなかった。“病”の番人トリンは、城とその周囲の丘を一日二十八時間、週九日と言いたくなるほど念入りに監視している。
「仲間を連れてくるんじゃなかったのか」
「トリンからメールがあったから、まずトリンのところに行ったんだ」
「で、女のことを何か教えてくれたか?」
「外に出よう」
パリスはそう言って顎でドアを指した。
アーロンは首を振った。
「この女のことはここで話せばいい。彼女は囮じゃない」
パリスはまたまっすぐな白い歯を舌で舐めた。
「女がからむとばかになるのは、おれのほうだと思ってたよ。どうやって正体を知った?女の口から聞いて、それを素直に信じたのか?」
こばかにするような口調だった。
「そうえらぶるな。この女は天使だ。おれを見ていた例の天使だよ」
パリスの顔から軽蔑の色が消えた。
「天から来た本物の天使なのか?」
「ああ」
「ライサンダーみたいに?」
「そうだ」
パリスはゆっくりと女を眺めた。パリスの女を見る目は鋭い――というか前までは鋭かった。そんなパリスのことだから、ひととおり眺めればすべてを見抜くはずだ。バストのサイズ、腰のライン、正確な脚の長さ。もちろん腹を立ててなんかいない。この女はどうでもいい存在なのだから。トラブルのもと以外の何物でもない。
「何者か知らないが」
さっきと比べるとパリスの怒りはずいぶんおさまっていた。
「敵の手先じゃないとはかぎらないぞ。今さら言うまでもないが、ガレンの下司野郎は自分で天使を名乗ってるからな」
「ああ、だがあれは嘘だ」
「この女の言葉は嘘じゃないって言うのか?」
アーロンはふいに疲れた様子で顔を撫でた。
「オリヴィア、きみはおれたちを倒すためにガレンの味方をしてるのか?」
「いいえ」
そのつぶやきを聞くと、さっきのアーロンと同じようにパリスも胸をつかんでよろよろとあとずさった。
「なんだこれは」
パリスは息をのんだ。
「あの声はいったい……」
「わかってる」
「この女は囮じゃないし、ガレンの手先でもない」
パリスは断言するように言った。
「わかってる」
アーロンはそう繰り返した。
パリスは頭をはっきりさせようとして首を振った。
「だがルシアンはハンターが残ってないか丘を調べようとするだろう。万が一を考えて」
これもアーロンがルシアンに従う理由のひとつだ。ルシアンは抜け目がなくて慎重だ。
「それが終わったらミーティングを招集して町で会った影の女のことを皆に教えないと」
うなずいたパリスは、ふいに青い目を輝かせた。
「たったひと晩でいろいろあったな。まだ意外なお客が来るかもしれないぞ」
「これ以上は勘弁してくれ」
「クロノスを挑発したのがまちがいだったんだ」
天使のほうを眺めながら、アーロンは胃がよじれるのを感じた。クロノスは挑発に乗ったのだろうか?オリヴィアが“楽しい鬼ごっこ”とやらの相手なのか?気がつくと鼓動は速くなり血は熱くなっている。
アーロンは歯を食いしばった。クロノスが呼び出したのがオリヴィアだとしても関係ない。たとえ誘惑されても、チョコレート色の髪と空色の目とハート形の唇を持つ女が相手でも、おれは揺るがない。
「挑発したのは後悔してない」
それが本音なのか嘘なのか、アーロンにはわからなかった。クロノスが天使を操れるとは思えない。それならどうやってこの女を送りこんだのだろう?もしやクロノスは関係ないのか?彼の勘違いで、クロノスは無関係なのかもしれない。
それもどうでもいい。この天使に誘惑されることはないし、少しでも惹かれるような隙を与える前に出ていってもらうつもりだからだ。
「ひとつ教えてやろう」
パリスが言った。
「トリンは隠しカメラで丘にいるこの女を見ていた。地面を掘り起こして地中から出てきたらしいぞ」
地中から出てきたとは。つまりこの女は地獄に堕とされて逃げ出すために這いあがってきたというのか?このか弱い女がそんなことをしている姿は想像できない。しかもそれで生き延びたとは。だが、アーロンは城を目指して走っていたときの女が見せた気丈さを思い出した。この女ならやるかもしれない。
「本当か?」
アーロンは新たな目で彼女を見た。たしかに女の爪の間や腕は泥で汚れている。だがローブのほうは血がついている以外はしみひとつない。
見てみると、さっき彼が裂いたところは、彼自身が怪我したときと同じように自然にもとどおりになっている。修復の力を持つ素材。世の中にはまだまだ驚くことがたくさんある。
「オリヴィア。答えてくれ」
女は目を上げずにうなずいた。小さく鼻をすする音が聞こえる。泣いているのだ。
胸が痛くなったがアーロンは無視した。この女が何者だろうが、どんな苦難をしょっていようが関係ない。弱気になっちゃだめだ。レギオンを驚かせ苦しめた者は追い払うしかない。
「生きている本物の天使か」
パリスは見るからに感心していた。
「おまえさえよければこれから彼女をおれの部屋に連れていって――」
「ひどい怪我をしてるからベッドの相手は無理だ」
アーロンはぴしゃりと言った。
パリスは一瞬、不思議そうにアーロンを見たが、にやりとして首を振った。
「彼女を品定めしてるわけじゃない。嫉妬なんかするな」
答えるまでもない言いぐさだ。これまで嫉妬など感じたことはないし、今から感じるつもりもない。
「それならどうして部屋に連れていきたいんだ?」
「傷の手当てをするためさ。えらぶってるのはどっちだ?」
「女の面倒はおれが見る」
たぶん大丈夫だ。天使に人間の薬は使えるのか?逆効果だろうか?別の種族の薬を与えると危険だというのはよく知っている。アシュリンは不死族のワインを飲んで死にかけたことがある。
ライサンダーを呼ぶことも考えたが、あの百戦錬磨の天使は今ビアンカと天界で暮らしていて、連絡をとるすべがあるとしてもアーロンは知らされていない。そもそもライサンダーには嫌われているし、天使のことを喜んで教えてくれるタイプとも思えない。
「おまえが責任を持ちたいならかまわない。いいから認めろよ」
パリスはまたにやりとした。
「自分の女だって言いたいんだろう」
「そんなつもりじゃない」
そんなことをしたい気持ちはかけらもない。ただ彼女は怪我をしていて、自分では手当てできない。そんな状態だから誰かとベッドをともにするのも無理だ。しかもパリスが求めるのはそれだけ、つまりセックスだ。口でどう言おうとそれは変わらない。
そもそも彼女はアーロンを呼んだ。アーロンの名前を叫んでいた。
パリスは負けずに続けた。
「天使は人間とはちがう。人間以上のものだ」
アーロンは顎を鳴らした。こいつは今まで何を聞いていたんだ。
「自分の女だと言うつもりなんかないって言ったんだ」
パリスは笑いだした。
「好きにするがいいさ、友よ。自分の女を楽しめ」
アーロンは両手を握りしめた。今は友の笑いを歓迎する気分じゃない。
「ここで話したことを何もかもルシアンに伝えてくれ。だが怪我をした天使がいることは女たちには言うなよ。きっと押しかけてくるだろうし、今はそんなことをしてる場合じゃない」
「どうして?これからいちゃつくつもりなのか?」
アーロンは、歯がなつかしい思い出に変わりかねないほど強く顎を食いしばった。
「質問するんだ」
「へえ、最近のがきはそういう言い方をするのか。まあ楽しめよ」
そう言うとパリスはにやにや笑いを浮かべたまま部屋を出ていった。
運んできた荷物と二人きりになり、アーロンは女を見おろした。彼女はもう忍び泣きしてはおらず、こちらを向いた。
「オリヴィア、ここに何しに来た?」
THE DARKEST PASSION
by Gena Showalter
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