「死ぬ運命なんかどこ吹く風って顔だな」
“怒り”の番人、不死の戦士アーロンは、ブダペスト中心部のブバヨス・アパートメントの屋根の上から、足取りも軽く夜道を行きかう人間たちを見おろした。買い物する者もいれば、しゃべり、笑う者も、歩きながら食べ物をつまむ者もいる。だが誰一人として、この非力な体にもっと時間を与えてほしい、とひざまずいて神にこいねがう者はいない。時間が手に入らないからといって涙にむせぶ者もいない。
アーロンは人間から周囲の景色に目を向けた。夜空から降りそそぐ淡い月光が琥珀色の街灯と混じり、街路に影を投げかけている。いたるところに建物が並び、ところどころ張られたライトグリーンの日よけがエメラルド色の街路樹とよく調和している。
だが美しいといってもしょせんは棺桶だ。
人間はいずれ命の火が消えることを知っている。好きなものや愛する人すべてを捨てる日が来ることを知りながら成長する。それなのに、生の時間を延ばしたいとも思わなければ求めもしないことにアーロンは気づいた。そこなのだ……彼が惹かれるのは。まもなく友と引き離されると知ったら、自分なら運命を変えるためになんでもするだろう。頭を下げたっていい。魔物を宿した戦士である仲間を彼は数千年も守ってきたのだ。
なのになぜ人間はそうしない?彼が知らない理由でもあるのだろうか?
「死ぬ運命は関係ない」
隣でパリスが口を開いた。
「命があるうちに生きているだけだ」
アーロンは鼻で笑った。それは求めていた答えとはちがう。“命があるうち”というのがほんの一瞬にすぎないのに、どうやって生きるんだ?
「人間はもろい。あっけなく死んでしまう。おまえもよく知ってるだろう」
それは残酷なせりふだった。なぜならパリスの……恋人?愛人?選ばれた女?どんな存在か知らないが、とにかくその女が最近パリスの目の前で撃たれて死んだからだ。だがアーロンは自分の言葉を後悔しなかった。
“淫欲”の番人パリスは毎日ちがう女とベッドをともにしないと体が弱って死んでしまう。特定の一人を失ったからといって、泣いてばかりはいられない。そのシエナとやらは敵だったのだからなおさらだ。
認めたくはないが、アーロンはその女が死んだのがうれしかった。生きていればパリスの欲望を逆手に取って、結局はパリスを破滅させたかもしれないからだ。
だがおれはいつまでもこの男を守る。それは誓いだ。神々の王クロノスは、かつてパリスにある選択を突きつけた。恋人の魂をよみがえらせるか、流血の執念に取り憑かれたアーロンの呪いを解くか。あのころのアーロンの心の中には傷つけ殺す欲望が渦を巻いていた。情けなくて認めたくないが、彼は何度もその欲望を行動に移した。
“苦痛”の番人レイエスは、その呪いのせいでもう少しで愛するダニカを失うところだった。実際アーロンはあの美しい首にとどめの一撃を刺そうとして、鋭いナイフを振りあげた。だがその寸前にパリスはアーロンを選び、殺戮の衝動は消え、ダニカは命拾いをしたのだ。
アーロンは心のどこかで、ダニカを殺しかけたこと――そしてパリスの選択の結末に今も罪悪感を抱いていた。その罪悪感は骨を焼く酸のようにアーロンをさいなんだ。自分は自由を味わっているというのに、パリスは苦しんでいる。だからといってアーロンはパリスに情けをかけることはなかった。パリスを愛する気持ちが強すぎるからだ。何よりパリスには恩がある。アーロンは借りは必ず返す男だ。
だから二人はこうして屋根の上にいる。
パリスの面倒を見るのは楽な仕事ではない。これまでの六日間、アーロンはぶつぶつ文句を言うパリスをここに連れてきた。パリスが女さえ選んでくれれば、あとは彼がその女を連れ出し、ことが終わるまで二人を警護するという段取りだ。だが夜ごとパリスは決断を先延ばしするようになった。
今夜はどうやら夜明けまでここでしゃべり続けることになりそうだ。
落ちこんでいるパリスが最初からはかない人間とのかかわりを断っていたら、手に入らないものを求めて苦しむこともなかった。
アーロンはため息をついた。
「パリス」
そして言葉を止めた。どう続ければいいだろう?
「もう嘆き悲しむのはよせ」
これでいい。的を射たせりふだ。
「弱みにつけこまれるぞ」
パリスは舌で歯を舐めた。
「おまえがそういう言い方をするとはな。おまえは何度“怒り”につけこまれた?数えきれないほどだ。そういう瞬間、何度神々を責めた?たった一度だろう。“怒り”の魔物に乗っ取られるとおまえは自分を抑えられなくなる。せめて罪のリストに偽善を加えるのはやめろ」
そんなことを言われてもアーロンは腹も立たなかった。パリスの言い分はもっともだ。“怒り”に乗っ取られると彼は翼で町に飛び出し、相手かまわず殴りかかり、相手の恐怖を味わった。そんなとき、自分のしていることに気づいていても愚行を止めることはできないのだ。
といっても、いつも止めたいと思うわけではない。中には殺されて当然の者もいる。
それでもアーロンは体をコントロールできなくなる自分を呪った。これでは操り人形か命令どおりに踊る猿だ。そんな情けない状態に陥ったときは魔物を憎んだ。だがそれも自分自身への憎しみにはおよばない。なぜならアーロンは“怒り”の魔物に対して憎しみだけでなく誇りも感じていたからだ。彼から主導権を奪うには力を必要とする。たとえどんなものであれ、力は賞賛に値する。
それでも愛と憎しみのせめぎ合いはアーロンを悩ませた。
「おまえはそんなつもりはなかったかもしれないが、それこそまさにおれが言いたかったことだ」
アーロンはさっきの話題に戻った。
「弱みにつけこまれたら身の破滅だ。例外はないぞ」
パリスの場合、悲しみにくれるのは集中力を失うのと同じ意味だ。気のゆるみは生死にかかわる。
「それがおれとなんの関係がある?あの人間たちとどうつながる?」
パリスが言った。
ここは大局からものを見るときだ。
「人間は一瞬のうちに年をとって衰える」
「それがどうした?」
「まあ話を聞け。もし人間に恋をすれば、一世紀近くはいっしょにいられるだろう。女が病気や事故に見舞われなければな。だがその一世紀で恋人が衰えて死んでいくのを見守ることになる。その間も、恋人のいない永遠の時間が待ってることがわかってるわけだ」
「悲観的すぎるぞ」
パリスは舌打ちした。アーロンが期待したのとは正反対の反応だ。
「大事なものが失われるのを黙って見ているだけの一世紀じゃない。究極の幸福を味わう一世紀だ。その幸福がそのあとの永遠を支えてくれるんだ」
支える?ばかばかしい。大事なものをなくしたとき、その記憶は二度と手に入らないものを思い出させる苦しみの源に変わる。そういう記憶は悩みを増やし、人を強くするどころか集中力をさまたげるだけだ。アーロンはパリスのように見栄えのいい言葉でごまかそうとは思わなかった。
その証拠にアーロンは、かつての親友、“不信”の番人バーデンに対して同じ思いを抱いたことがある。その昔、彼は血を分けた兄弟よりも愛したこの男を失った。そして一人になるたびにバーデンを思い浮かべ、もし生きていたらと思いを巡らせた。
パリスにはそんな思いをしてほしくない。
大局的な話はやめにしよう。こうなったらずばりと言ってやるしかない。
「人を失ってもあっさりあきらめられるなら、どうしていまだにシエナのことを悲しんでいるんだ?」
月光がパリスの顔を照らし出した。その目にかすみがかかっているのが見えた。また飲んでいたんだな。
「シエナとは一世紀をともにできなかった。たったの数日だ」
パリスの声には抑揚がなかった。
ここで引いてはだめだ。
「百年いっしょにいられれば、シエナが死んでも平気だったのか?」
一瞬の間があった。
「もういい!」
パリスが拳を屋根にたたきつけたので、建物全体が揺れた。
「このことはもう話したくない」
それは残念だ。
「なくしたものは戻らない。弱みは弱みだ。人間に強い感情を持たないようにすれば、いなくなってもなんの痛みも感じない。心を硬くすれば手に入らないものに恋い焦がれることもない。魔物がおれたちにそうたたきこんでくれたはずだ」
戦士たちが宿す魔物は、かつて地獄で自由を求め協力して脱出を試みた。しかし結局は牢獄が変わっただけで、地獄よりひどい場所に閉じこめられることになった。
かつて地獄の硫黄と業火に耐えた魔物どもは、千年間パンドラの箱に封じこめられることになった。闇と孤独と苦痛の千年。自由もなく、よりよい場所への希望もなかった。
魔物どもがもっと自分を強く持ち、禁じられたものを求めなければ、捕らわれることもなかっただろう。
アーロン自身、意志の強さがあれば箱を開けるのに手を貸すこともなかった。そうすれば、みずからが解き放った魔物を体に宿す呪いを受けることもなかった。唯一の家だった天界から追放されることもなければ、流転ばかりのこんな世界に永遠に閉じこめられることもなかった。
そしてハンターとの戦いでバーデンを失うこともなかった。戦士たちを憎む卑劣な人間どもハンターは、世界中の悪を戦士のせいにしている。友人が癌で死ねば、当然のように戦士たちのせいにする。十代の少女が妊娠すればやはり戦士のせいだ。
アーロンがもっと強ければ、戦いの日々に逆戻りすることもなかった。戦い、殺し、また殺す日々に。
「おまえは人間の女に恋い焦がれたことはないのか?」
パリスの声がアーロンを現実に引き戻した。
アーロンはふっと笑った。
「次の日に失うとわかってる女を歓迎する?まさか」
おれはそんなばかじゃない。
「失うとわかってるわけじゃないぞ」
パリスは革のジャケットの懐から携帯用の酒のボトルを取り出して長々と飲んだ。
また飲むのか?励ましてやろうと思ったのに、パリスにはなんの役にも立たなかったらしい。
飲み終わるとパリスは続けた。
「マドックスにはアシュリンが、ルシアンにはアニヤが、レイエスにはダニカがいて、サビンにはグウェンが現れた。グウェンの姉、血も涙もないあのビアンカだって恋人がいる。おれとオイル・レスリングした天使だ。まあ、その話をする気はないが」
オイル・レスリングだと?そうだな、それは聞きたくない。
「たしかにあいつらには相手がいるが、その相手は人間の中でも抜きん出た力を持つ女だぞ。人間以上の存在だ」
だからといって永遠の命が保証されているわけではない。不死族でも殺されることはある。バーデンの頭部を拾いあげたのはアーロン自身だ。永遠に凍りついた衝撃の表情を最初に見たのは彼だった。
「答えが見つかったじゃないか。特殊な力を持つ女を見つければいい」
パリスが皮肉っぽく言った。
そんな簡単な話じゃない。それ以前に問題がある。
THE DARKEST PASSION
by Gena Showalter
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